『神河物語』ブロックでは、神と、住民たちは対立関係にありました。
今回のオリジナルエキスパンションでは、本来の関係であろう、友好関係にあります。それを、シャーマンやクレリックと、スピリットとのシナジーによって表現しました。
これは悪くないアイデアだと思っていました。しかし、その他の職業、侍や忍者などとは何の接点もありません。
宗教的な職業は当然としても、その他の住民にとっても神は信仰対象であるはずです。先述のアイデアでは、そこを描ききれませんでした。
特に、青は宗教的な職業がないため、スピリットと接点のあるクリーチャーがいません。呪文ではシナジーがあるのですが。
神との関わり方を描く方法については、もう少し考える余地がありそうです。
神との関わりと言えば、分かり易いのは『テーロス』でしょうか。「英雄的」を持つカードが、神の加護を「授与」によって受けます。また、神側にも「信心」というメカニズムで、人々からの信仰が表現されています。
また、同様に神話モチーフであり、神が信仰されている『アモンケット』では、人々は神々の「碑」において「試練」に挑み、クリアしたものは「カルトーシュ」を授けられます。このように、キーワード能力や能力語などのメカニズム以外に、個々のカード(のサイクル)で表現する方法もあります。自らに試練を課すことを、自らにデメリットを与えるようなギミック(督励、-1/-1カウンター、手札を捨てる)でも表してます。
『テーロス』においては信心、『アモンケット』においては試練が、神と住民との主な接点となっているようです。
では、神河における神と住民との関係はどうなのか。それはゲーム上、どのように表現されるのか。今のところ、これがベストという結論は出ていません。
そもそも論で言ってしまえば、八百万の神は日本神話(日本神道)であり、侍や忍者は和風ファンタジー(あるいは歴史もの)の要素なので、それらを混ぜること自体がどうなのか、という話になります。
スピリットを、八百万の神よりも妖怪の要素とするのも1つの手かもしれません。侍や忍者との対立構造ができます。現実の侍や忍者は妖怪と戦う訳ではありませんが、和風ファンタジーにおいては戦うことはあるので、違和感も薄れるでしょう。
また、妖怪は「信仰を失って落ちぶれた神」「祀られなくなった神の成れの果て」といった面もあります。そうして神(だった存在)と対立するのは、他の神話モチーフ次元との差別化になるでしょう。
「結局また神対住民になるのか」とも思われそうですが、『神河物語』のような全面戦争ではなく、あくまでスピリットの一部なので一応は違います。また、必ずしも妖怪と戦う(退治する)住民だけでなく、友好を結んで再び神として祀られるよう働きかける住民がいてもいいでしょう。こうした穏健派と過激派に分かれることもまた、創作物における定番の1つです。
神も住民も勢力が分かれており、神と住民の関わり方もそれぞれ異なるとあれば、それを神河の独自性とできるでしょう。
今回のオリジナルエキスパンションでは、本来の関係であろう、友好関係にあります。それを、シャーマンやクレリックと、スピリットとのシナジーによって表現しました。
これは悪くないアイデアだと思っていました。しかし、その他の職業、侍や忍者などとは何の接点もありません。
宗教的な職業は当然としても、その他の住民にとっても神は信仰対象であるはずです。先述のアイデアでは、そこを描ききれませんでした。
特に、青は宗教的な職業がないため、スピリットと接点のあるクリーチャーがいません。呪文ではシナジーがあるのですが。
神との関わり方を描く方法については、もう少し考える余地がありそうです。
神との関わりと言えば、分かり易いのは『テーロス』でしょうか。「英雄的」を持つカードが、神の加護を「授与」によって受けます。また、神側にも「信心」というメカニズムで、人々からの信仰が表現されています。
また、同様に神話モチーフであり、神が信仰されている『アモンケット』では、人々は神々の「碑」において「試練」に挑み、クリアしたものは「カルトーシュ」を授けられます。このように、キーワード能力や能力語などのメカニズム以外に、個々のカード(のサイクル)で表現する方法もあります。自らに試練を課すことを、自らにデメリットを与えるようなギミック(督励、-1/-1カウンター、手札を捨てる)でも表してます。
『テーロス』においては信心、『アモンケット』においては試練が、神と住民との主な接点となっているようです。
では、神河における神と住民との関係はどうなのか。それはゲーム上、どのように表現されるのか。今のところ、これがベストという結論は出ていません。
そもそも論で言ってしまえば、八百万の神は日本神話(日本神道)であり、侍や忍者は和風ファンタジー(あるいは歴史もの)の要素なので、それらを混ぜること自体がどうなのか、という話になります。
スピリットを、八百万の神よりも妖怪の要素とするのも1つの手かもしれません。侍や忍者との対立構造ができます。現実の侍や忍者は妖怪と戦う訳ではありませんが、和風ファンタジーにおいては戦うことはあるので、違和感も薄れるでしょう。
また、妖怪は「信仰を失って落ちぶれた神」「祀られなくなった神の成れの果て」といった面もあります。そうして神(だった存在)と対立するのは、他の神話モチーフ次元との差別化になるでしょう。
「結局また神対住民になるのか」とも思われそうですが、『神河物語』のような全面戦争ではなく、あくまでスピリットの一部なので一応は違います。また、必ずしも妖怪と戦う(退治する)住民だけでなく、友好を結んで再び神として祀られるよう働きかける住民がいてもいいでしょう。こうした穏健派と過激派に分かれることもまた、創作物における定番の1つです。
神も住民も勢力が分かれており、神と住民の関わり方もそれぞれ異なるとあれば、それを神河の独自性とできるでしょう。
コメント
信仰を失い凋落したものがスピリット・デーモンとすると上手く表現できそうです。
ただそうなると全てのレアリティに神が溢れ
黒以外の色にも単色のデーモンを作成しなければならなくなりますが。
「クリーチャー・タイプとして神を持つクリーチャー」と、「フレイバー的に神々なだけのクリーチャー」は別らしいです。神河における八百万の神も、ほとんどは後者のようです。そうしたことから、スピリット・神を大量に作るのも良くないと考えます。
今回、顕現持ちのクリーチャーはいませんが、デザイン領域の節約として後のセットに取っておく意図があったのでしょうか?
1.いろいろクリーチャーを作っていたら入れる枠が無くなっていた。
2.スピリット・トークンがバニラなので、神になったという特別感が薄い。
3.クリーチャーの場合、(フレイバーを除けば)不朽や永遠と似たり寄ったりになる。2.のように能力を持たせられない点を考えると劣化ですらある。
という理由で無くなりました。
顕現については色々と思うところがあるので、後のセットで使うかは確定していません。